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2016.2.8

この畑は初公開。新しく借りたばかりの畑には麦を植えました。

あまり「農法」的なことは言わないようにしているのですが、たまには書いてみようと思います。「なぜ書かないか」も含めて。

様子がわからない畑で麦を最初に育てるのは結構理にかなっていて、目に見えない土の中の様子はそのまま麦の成長に反映されてきます。

想像していた通り、前作の前に入れたであろう堆肥がまだ効いている様子。成長が悪いところはなく、堆肥は均一にまかれたことが分かります。

そして…3年間付き合っている畑と比べた時、まず土の固さに驚きます。草も結構生えてきました。

今、この畑は堆肥だけが入っていた状態から、菌が増え虫が増え草が生え、ゆっくりと本来の自然の姿へ多様化しようとしています。

農法のいろはを持ち出して難しく考える必要はありません。単純に今、とても偏っている状態から均一に多様化していこうとしている。その手助けをしてあげながら循環していくリズムや流れを作るのが私がこれからすることです。

「人」が「自然」と向き合うのではなく、「人」もまた「自然」になる。そもそも人と自然は二項対立ではないはずです。

これは決して哲学の話ではありません。毎年決まった時期に芽が出て花が咲き種が落ちるように、毎年同じ時期に麦を植え大豆を植える。この人の営みもまた「自然」になり得るのです。

そのリズムに合わせるように、自然は多様化して無駄なく均一に広がります。その多様性が均一に広がった時、そこは本来の自然になります。

決して「完璧」になるわけではありません。中には病気になるのもあるだろうし虫に食べられるのもあるかもしれません。しかしそれも多様性の1つでしかなく、全体がやられてしまうことはないのです。

一人一人に個性があるように、(F1や遺伝子組み換えの種でなければ)種一つ一つにも個性があります。その個性こそ自然のもつ多様性。個性は個性でしかなく、いいも悪いもありません。

「ひとつも」病気を出さない
「ひとつも」虫に食われない
「ひとつも」草が生えてこない

最近よく聞くフレーズですが…結果的にそうなることはあるとして、そんな画一的な結果を目指すこと自体がとても不「自然」に私は思えてしまうし、一番大切なことが伝わってない気がしてしまうのです。

堆肥を入れるのも決して悪いことではありません。ただ、自然の営みでは起こらないような手を加えることで、自然はまた多様化しようと働き始めます。病気になったり虫が増えたり草が生えたり…は多様化しようとする自然の力です。

足らない分ぴったり補えることができたらいいかもしれませんが、目に見えない土の状態に合わせて手を加えるのは非常に難しく、必ず失敗が伴います。

早朝の鏡のような水面を思い浮かべてみてください。そこに石を投げ入れた時に広がる波紋は、やがて跳ね返って幾重にも重なり互いに打ち消し合い、しばらくするとまた最初の静寂に包まれます。

手を加えることは石を投げ入れることに似ています。一度広がった波は静けさをとりもどすまでに様々な波を起こします。自分で立てた波を打ち消すような波を打つことは至難の技。

だったら水そのものになってしまおう、というのが私の考え方です。

その方法はきっと畑の土や周りの環境、作る作物によって千差万別。正しい農法など何もなく、違うのはただ自然との付き合い方だけ。その結果として目に見えてくる自然の姿もまた千差万別なはずです。

だから農法もいろいろあっていいのではないでしょうか? 近頃見た目の結果で評価しようというものが多くて少し気になっています。


2016.02.09ほっこり目線

次の命へ2016.02.06


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